不登校の子どもの母よりタイトル画像

1)Φ はじめに

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市)の精神分析家 楽歩愛真(らくほまなみ)です。
当研究所では、精神分析(セラピー)という対話療法により心身の悩み相談を受けています。

このサイトでは、あるクライアント(以下Mさんと呼びます)の、心の軌跡を辿った手紙をご紹介したいと思います。
その手紙は、Mさんが精神分析を受け始めて3年くらい経った頃に頂いたものです。

まず、出会った当時のMさん(40代)は、うつ状態で、子どもさんも不登園がちでした。やがて「不登校」をするようになります。そして、Mさんはそのような娘さんを受け容れることができず、苦しんでいました。
これから紹介する手紙では、Mさんが精神分析を通して、娘さんの「不登校」をどのようにして受け容れられるようになっていったのか、また、自身のうつとどのようにバランスをとりながら、娘さんに向き合ったのかが記されています。

現在、同じように「不登校」「引きこもり」などで悩んでいる方もたくさんいらっしゃると思います。
そのような方々に、是非この手紙を紹介させていただきたいと考えました。
このことをMさん母娘に伝えたところ、快諾いただきましたので、ご紹介いたします。

※原文は通常の手紙形式で書かれたものではなく、Mさんが自分の気持ちを整理してまとめたものとなっています。
ここではそれらを「手紙」と表現しています。

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2)Φ お手紙全文


『今のわたし』

~自分の辞書で語ってみる~
 
学んだことを組み立ててみる 

理解を深めるために・・・
 
誤解に気付くために・・・

   

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「女性は学ぶのである。何をどうすることが母性で、女性なのかを・・・。」(心的遺伝子論p.92)

≪子どもの不登園から転園、そして不登校を体験して≫
~子どもと私の関係について~


子どもとは?母とは?

私は親になって初めて、子どもとはどういう存在かを知りました。
ドラマで見るような従順に親を慕う、かわいい存在ではなく、ましてや動物のように調教できる存在でも、閉鎖空間で管理できる存在でもない。
私は自分の「うつ」、子どもの「不登校」をきっかけとして、分析を受ける中で、「子どもと母」というものを次のように認識するようになりました。
子どもとは、
   ●ひたすら「受容」を求め、心を満たしてもらうことを求めてくる存在(=甘え)
   ●親の庇護無しには生きられない存在(=依存)
そして、母になるとは、その「依存」と「甘え」をひたすら「受容し、満たし続ける能力」を求め続けられることだと知りました。 子どもは満たされて初めて「私は愛されている」と知り得るからです。


子どもと私との相関~社会との関わり

 
母である私が、社会と関わるということは、母として子どもとの心のバランスを取りながら、私個人として、社会という「個の集団」とも関わり、バランスすることを意味します。
ちょうどサーカスで、額に物を乗せてバランスしながら、綱渡りをするようなものです。
そう考えると、独身時代の私は、一人だったからこそ社会に適応できていたのかも知れません。
自分と仕事とのバランスが取れていればよかったのですから。
今から思うと、結婚し、子どもを持った私は、仕事と自分の気持ちとのバランスしか見ていず、子育てや対夫、家事は仕事の片手間という感覚だったような気がします。
子どもや夫に向き合う時間が持てない、夫は独断的だ、子どもは思うように動かない・・・と、周囲に対して不満ばかりを感じていました。
しかし実は、時間を持てない最大の原因は、私に、「向き合おうとする主体性が無い」からだったのでしょう。
向き合おうと「できない」私は、いつも子どもや夫に「背中を向けていた」ことになります。
甘えたい、満たされたいのに、常に母である私から「背中を向けられていた」子どもは、欲求不満を「不登校」という形の「行動」で訴えてきた(=反発)ということでしょう。
(これは、不登園を始めたころの日記を見れば、明白です。)
これと同様のことは、今の私が心のバランスを崩した時にも起こります。
ある不安が私の心を占めると、それを解決しないうちは、心がそちらに囚われて余裕がなくなるために、子どもに対して攻撃的(排除的)になってしまいます。
なので、まず、私自身の心の立て直しが必要になり(分析による不安要因の整理)、その間は一時的に「子どもに背を向ける」形になってしまいます。
すると、やはり子どもは、「向き合わない私」に反発するのです。
子どもから見れば、親の能力や事情に関係なく、「背を向けられ、満たしてもらえない」点では同じことで、そこには「反発」が出るわけです。

しかし、以前と今では違いがあります。

それは、私が子どもの欲求不満に気付き、気持ちに寄り添えるようになってきたことです。(共感)。
すると子どもは、背を向けられる事情を「納得」し、私が向き合えるようになるまで、「待ってくれる」ようになってきました。
私は、この体験を通して、子どもと私の間に「信頼」が芽生えはじめたのだと感じています。
以前の私には、向き合う能力(=在りのままを受け容れて、心に寄り添い、満たそうとする能力)がありませんでした。この能力が「母性」というのだと、今は認識しています。
もし、私が「母性」を知っていたなら、きっと働きながらでも、子どもや夫の心と向き合い、満たすための「時間」も「方法」も見つけられたはずですから。

  ※母性を知らなかった私~
私自身、母から在りのままを受け容れてもらう体験がなかったために、「在りのままを受け容れる」とはどうすることかを、理解できませんでした。真言先生との「対話」を通して、ようやく、「受け容れてもらう喜び」を知るようになれた私なのです。(当時のインテグレーター名は、真言皆美)


不登校について思うこと

子どもの不登校は、私にとって苦しいものでしたが、そのことと向き合うことで、「自分と向き合え」私に足りなかった「母性」を学び始めることができました。
そして、そのおかげで、私は「子どもと向き合うこと(在りのままを受け容れること)」をわかり始めたのだと、今は子どもに感謝しています。
まだ子どもは、学校に「行っている子」と「行っていない自分」との「違い」の壁に前で立ち止まっています。
その姿は、「他者の言動やペース(=他者の基準)」という壁の前で、揺れはじめると動けなくなる私(=他者と自分の「違い」を「対等のもの」として見れない私)と全く同じです。

私には初め、「学校に行くのが当たり前」の観点しか無かったので、「行かない子ども」を批判的に見、「行けない」と校門で尻込みする姿を「ダメな子」と感じていました。
(「行っている子」より劣っている、頑張れない我が子という視点でものを言っていたと思います)
だから、私自身、「人目」も気になり、『あなたのせいで、私がダメな母と言われるのは嫌よ』と、子どもを「悪者として、ダメな子として」扱う雰囲気が、強かったと思います。
だから子どもは、友だちから「なぜ学校に来ないの?」と言われると、相手はただ、疑問に思って聞いているだけなのに、「学校に行けない、ダメな自分、馬鹿にされる自分」と思い込み、「自己否定」を感じてしまったのでしょう。
子どもに「自己否定」を感じさせたのは、言うまでも無く、母である私の「子どもは劣っている」と見る(断定的な)観点のせいです。「学校に行くのが、正しい」との観点が、「行かない」を「誤り」と断定することになったのです。

教育(学び)を考える時、「学校に行くのは、正しい」。しかし、果たして、「行かないことは誤り」と断定してしまっていいのでしょうか?私たちの認識を省みるとき、「学校に行くことが正しいことで、行かないことは誤り」との見方をしてしまっていないでしょうか?
教育を享受する手段として、「学校」は確実な機関ですが、それ以外にもメジャーではなくても、学びの方法は探せば数々あります。なのに、私たち大人の観点は、知らない間に、教育=学校となっていて、視野を広げることを意識しなくなっているのかもしれません。

子どもの「不登校」について、いろいろ模索する中で、ある時から私の中に、「学校とは学びの手段のひとつなんだ」という意識が生まれました。
学校に行っている子も、行っていない子も、その「違い」は、正誤・優劣と断定されるものではなく、学びの手段を「学校」に求めるか、「学校以外」に求めるかの差があるだけ、つまりは「学びの選択肢の違い」があるだけなのではと感じるようになりました。(今は、社会の大半が「学校」を学びの場としているので、学び=学校が常識化しているだけ)

そして、本来は、学びの「主体」である子ども自身が、学びの手段を選べるべきものなのかもしれないと思い始めたのです。
その観点に立つと、健常な子も、病気の子も、身障者も、心に傷を抱えた子も、「今、在るがままの自分」で、可能な手段を選び、社会に関わるために主体自身にとって必要なことを学び取ってゆくことができるのです。
もしかしたら、それが子どもたちにとっての学びへの「権利」であり、「義務教育」とは、様々な状況の子どもたちが、普通教育を学び取る権利を保障するための、大人側の「義務」ということではないのか?と思えてきました。
そうだとすれば、今の社会は、義務を果たす側の大人の意識の中に、選択肢が「学校」しかないばかりに、その結果、学ぶ主体の子どもの側に、選択できる「学びの場なり、手段」を整備してやれていないことになります。
これだけ、ブロードバンド化が進み、様々な機構が整っている日本なのに、ただ、大人の側が思い込み視点を移せないばかりに、徒に子どもたちをいじめや不登校、自殺、暴力などの中に放置し続け、苦しめることになっているのではないのか?そんなふうに思えてきてしまうのです。
学びの場は、学校に限らなくても、通信学習でも、ネットでも、独学でも、自由な人々との交流の中ででもいろいろあります。主体が学習意欲さえ、失わなければ、学ぶ気さえあれば、どんどん吸収してゆけます。

※人間には、本来、主体性があるように思われます。それは、乳幼児を観ていると、誰もが気付くことです。「自分で!」と、とにかく自分で確かめ、やってみないと気がすみません。そうして、いろんな感覚を獲得していくものなのでしょう。

なのに、私たち大人は、学校のことで言うと、「学ぶ=学校に行く」が当たり前すぎて(当たり前だと思っているから)、子どもたちは様々な状況や反発(不登校やいじめや引きこもりetc)に対応しきれない、それが今の様々な社会現象の根底にある根本原因なのかもしれません。

だから、私もそうだったように、大人は子ども(学びの主体)から「行きたくないから学校には行かない!」と言われたとき、「ダメ!」と否定的な断定しか出来ず、うろたえてしまい、自らの不安から、子どもを悪者にして、子どもを自己否定の闇へと追い詰めてしまう・・・。
これこそが、「不登校」という問題そのもので、不登校の問題というのは、子どもの問題のように見えて、実は大人の側の視点(価値観)の問題なのだと、今は思っています。


等価の視点~視点の偏り(偏見)

「学ぶ=学校へ行く」が一般的なので、大人はその観点から語ってしまう。
大人が、学校に「行く」ことを「正常」と語ると、子どもは「行かない」を「異常」と思い込む。
大人が「高偏差値・高学歴」を「優れている」と語ると、子どもは「それ以外」を「劣っている」と感じてしまう。
常識化していることは、その対極にあることを、「等価」と認識し難くさせる。
(自分があるところを基点としているとき、今自分が立っているところが、実はものごとの片側であることには気付きにくい、中心と誤認しやすい。誰も間違ったところに立とうとは思わないからだ。)
大人の視点の偏り(偏見)が、子どもを「自己否定感」に固着させ、伸びる意欲を「渋滞」させる。 
大切なのは、大人が、「子の在るがまま」を「成長の過程」として受容することなのだろう。

●「行く」と「行かない」を正・誤と「区別」せず、「どちらも、成長の一段階」として肯定的認識を示す。
●他者との優・劣の「比較」を語らず、他者との「違い」との認識を示す。

そうすれば、子どもは、他者を「裁かず」、他者との間には、ただ、「差異があるだけ」なのだと、学べるのではないか?
そう学んだ子どもは、自分より、優れた子も、劣っている子も、ただ、「自分とは少し違うね」と他者を受け容れ、他者とは違う自分を受け容れて、優れた子から学び、劣っている子には教えたりしながら、友だちの輪を広げていけるのではないだろうか。
「尊重」や、「感謝」は、他者から教えられてするものではなく、こうした感覚的な他者との関わりの中で、主体自身の中に自ずと培われていくものなのだろう、そういうふうに思えるようになった。


偏見から来るもの~帰属感と疎外感
 
社会における「常識」を、「一般的に大多数が認める概念」と考えると、私たちの正常・異常の判断基準は、多数か、少数か、ということになる。(「心的遺伝子論」p.99)
多数派は「正常」と語られ、少数派は「異常」として排斥される。
そして、私たちは「正常」に帰属していたいが為に、「異常」と称されるところから、疎遠になろうする。
その結果、少数派に属する者は、「世間」と呼ばれる多数派から背を向けられた形となる。
「村八分」「仲間はずれ」として、「発言権」も「存在価値」も無いに等しい「疎外感」に苦しめられることになる。
(言えども、耳に蓋。居れども、無視される)
誰もが「平等」を求めながら、視座の偏りによって気付けないために、実際は「疎外感」への不安から、片方しか認めない構造(誤りといってもよい?)に陥ってしまう。
これこそが、いじめをはじめ、虐待、不登校、引きこもり、ニート、うつ、etcの社会問題の根底にある問題のように思います。

この解決策は、唯一つ、「在りのままを受容すること」。
私たち大人が、●常識の偏りに気付き、
       ●他者への区別による断定をやめ、
       ●他者との間に在るのは、「違い」だけなのだと認識すること。

そうすれば、
主体(子ども)は「在りのまま」に、
主体(子ども)が主体的に「方向性」を見出し、
主体(子ども)なりの「マイペース」で、
成長への道を歩める。

私たち親に代表される大人にできることは、
主体(子ども)の「在りのまま」を、子ども自身の心的成長の「段階」として肯定し、
主体(子ども)が今、在りのままの状態で、成長への道を安心して進めるような環境
{学びの選択肢や、価値観の見直しによる肯定的言動(=心的受容)}を保障することでしょう。
私の子どもも、学校に行っている友だちと自分との「違い」の意味を、等価の視点で理解するようになれば、(「行く」「行かない」は、学びの選択肢の違い)主体的に、方向性を見出し、進み始めるでしょう。
子どもにとって、内的に期が熟するための時間を経れば、いずれ、固着していた思い(疑問)に「納得」がいき、心に区切りがついて、次に進みたいとの欲求がでてくるのでしょう。
それは、この三年間での、私の心の変化(心の学び)を通して、私自身が実感していることでもあります。


わかってほしいのに、わかってくれない

子どもは、生まれる前(母の胎内期間)から、言葉(赤ちゃんにとっては音)のみでなく、そのトーン、他者からのまなざし、感触、匂い、雰囲気などの、持てる感覚の全てを通して、感じているはずである。
最初に宿とする母の胎内、生れ落ちてから最初に世話をしてくれる母という他者から、伝わってくる感覚を頼りに生きているといってもいい。母の対応(刺激)を通じて、快・不快を感じ、反応しているのだろう。
だから、子どもは、物心付いてくれば、母からどう語られ、母にとって自分はどういう存在かをいつも意識しているに違いない。子どもは、受容され、満足させてもらえて(不快を快に変換してもらえて)初めて、私は母から愛されていると、「安心」を覚えるのだろう。

だとしたら、もし大人(母)が、子どもの思いをなおざりにして、子どもの将来に焦点を合わせて、日々対応していたらどうなるか?
今、子どもが「満たして欲しい欲求(したいことや、したいことへの援助)」は、無視され、「今(将来の為に)しなければならない(と母親が思う)こと」を押し付けられてしまうことになりはしないだろうか?
親が子どもの将来に期待を抱くのは仕方ないが、その実現にばかり目が行き過ぎる(偏る)と、日々の子どもの気持ちに「気付けず」、思いがズレはじめ、気付いたときには、「わかってほしいのにわかってくれない」と、とんでもなく「欲求不満」を巨大化させてしまう・・・。結果、家庭内暴力や、動物虐待までとはいかなくても、キレやすくなり、意志の疎通が困難となって、家庭内に亀裂ができてしまうのではないか。
親である私たちに必要なのは、子どもの将来への心配りと、今の子どもの欲求をみたすことの「バランス=程のよさ」が、何よりも大切なのだろう。

育てたように子は育つ(心的遺伝子論 p.55)
親の思い通りにいった時には「賞賛」され、その逆の場合には、落胆や怒りの顔を見せられてきた。彼らは親の顔色をうかがいながら、成長しているうち、自分でものを考える習慣を育てることが出来ないまま、思春期を迎え、実体のない自分に、ひどい「不安」と「困惑」を感じているのである。

(Mさんから頂いた手紙そのままを、一言一句変更することなく書き写しました。)
※ 「心的遺伝子論」についてはこちらを参照ください。

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3)Φ おわりに

読み終えられて、どのような感想を持たれたでしょうか?

「うつ病」と向き合い、葛藤しながらも娘さんの「不登校」を受け容れられるようになっていったMさんです。
精神分析を受ける中で、娘さんの「不登校」は、Mさんが娘さんに向き合えないことへの反発だと気付きます。
そこから、娘さんの「不登校」は、実はMさん自身の問題ではないかと思うようになっていきます。娘さんの「不登校」を受け容れられるようになってきたのは、その時からだったように思うと、Mさんは当時を振り返って言いました。

シニフィアン研究所では、子どもさんの問題で悩んでいる方に、「オールOK子育て法」をお伝えしています。
この「オールOK子育て法」について、少し紹介します。
「オールOK子育て法」とは、親側の要求を出さずに、ありのままの子どもさんを受け容れるという方法です。
このように言うと、ほとんどの方はビックリされると思います。
不登校で言うと、「学校へ早く行ってもらいたい」という親側の要求は出さず、「行けない」子どもを受け容れること、です。
そうすれば、子どもも「行けない」自分を責めることなく受け容れ、子どものペースで社会と関わるようになっていきます。
そして、何よりも親自身が、それまでの「早く学校へ行ってもらいたい」という思いから、少しずつ距離をとって、見つめることができるようになります。そうすると、「不登校」そのものより、将来も含めた広い視点から、今の子どもを見ることができ、子どもを信じようと思えるようになっていきます。

Mさんもこの「オールOK子育て法」により、学校に行けない娘さんを受け容れる努力を重ねていました。
ですが、娘さんにはなかなか大きな変化は見られませんでした。
ところが先日、「娘が≪今日学校は?≫と聞かれて≪今、不登校中です≫と平気で答えていました。」と報告がありました。それを聞いて、少しずつ、ですが着実に、ありのままの自分を受け容れ、成長している娘さんの姿が目に浮かびました。
現在娘さんは、毎日ではありませんが登校したり、NPO法人が主催する「居場所」へ通ったりしながら、彼女のペースで社会と関わろうとしています。

このように、親が子どものありのままを受け容れた時、子どもは受け容れてもらうことの喜びを味わいます。
そして次に、子ども自身が自分のありのままを受け容れることができるのだと思います。
こうして子どもは、迷いながらも次々と新しい自分を発見し、受け容れ、成長していくことでしょう。
その姿を見て親は、「オールOKして本当に良かった」と語ることになるのです。

「不登校」だけでなく、様々な子どもの問題や葛藤、そして悩み・苦しみを抱えている方はたくさんいらっしゃると思います。
そんな方々に、精神分析を通して自分に向き合うことにより、視点が変わることの素晴らしさと、親子が共に成長していく姿を、Mさんの手紙を通して少しでも読み取ってもらえたら嬉しく思います。

「私の想いを綴ったこれらを大切にしてくれると信じて、先生に預けます。」
と、託してくれたMさんの手紙は、今も大切に私の引き出しにしまってあります。

最後に、HP上で紹介する事を快く承諾してくださったMさん母娘に感謝いたします。

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◆ シニフィアン研究所では、子育てをはじめ、様々な問題や悩みの相談に応じています。
ここで紹介したMさん親娘をはじめとして、これまで数多くの親子の姿を見守ってきました。
その中では、同じように不登校をしていても、短期間で登校した子ども、少し時間がかかった子どもなど、その状況により様々です。
しかしながら、どの子どもも、自分の足で一歩ずつ前へと進んでいます。
どんなささいなことでも、お気軽にご相談ください。きっとお役に立てると思います。
詳しくはシニフィアン研究所(精神分析家 楽歩愛真)のHPをご覧下さい。
 http://signifiant-lab.com/

併せて、「ブログ」 「オールOK子育て法」 「摂食障害・リストカット」 「女たちよ賢明であれ」Twitter」もご覧下さい。

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4)Φ Webマガジン月刊精神分析&分析家ネットワーク



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 自らも精神分析を受け、精神分析家を目指し理論を学んだ人たちが、東北・関東・関西を中心に活動しています。  紹介します。(敬称略)  メールに関して、☆を@に変換したメールアドレスにメール送信願います(スパムメール対策)

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